« 吉田清治の記事(朝日が32年後に取り消した記事)とはどういうものか?その① | トップページ | 自分が情けない。朝日新聞の「吉田調書」の記事を鵜呑みにしていた。 »

吉田清治の記事(朝日が32年後に取り消した記事)とはどういうものか?その②

以前ブログで書いたのだが、実害の証拠として、朝日新聞の記事が迷惑だと思っていた韓国人がいた。

 

 

文芸春秋1993年3月号で

 

盧泰愚大統領はインタビューで

 

「(慰安婦問題は)実際は日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反日感情を焚きつけ、国民を憤激させてしまいました」

 

 

本当に許せないですよね。朝日新聞。

 

 

 

その①で書かせていただいた吉田の最初の記事の次に出したのが、1983年11月10日朝刊のコラム「人」である。せっせと吉田作り話を世界に広めていった。

 

1982年の9月から1年以上の期間があるのに、吉田の肩書や慰安婦狩りは何の裏取りもしなかった事になる。ウソ垂れ流しですか!

 

日本の大手新聞の朝日新聞が大々的に報道していて韓国で話題にならないわけがない。

 

当然韓国に呼んで記者会見をして欲しいと要望してくるわけだ。

 

それは、またの記事で紹介するとして、3つ目の記事(1986年7月9日朝刊)では、

 

なんと!

 

吉田が集会で講演するので、と日時場所まで紹介してるのだ。

 

 

 

 

アジアの戦争犠牲者を追悼 8月15日、タイと大阪で集会

 

 

 

1986/07/09 朝日新聞 朝刊 22ページ  

 

その他の書誌情報を表示

 

 

 


           

   

 第2次大戦で犠牲になったアジアの人たちを追悼する集会が、終戦記念日の8月15日、「死の鉄道」で名高い泰緬(たいめん)鉄道の要所、タイ・カンチャナブリと大阪で同時に開かれる。タイでは、鉄道建設で死んだ連合軍捕虜や現地労働者を慰霊するため、元陸軍省通訳が建てたタイ式寺院に、「ロームシャ」と呼ばれた当時の労働者やその遺族らが集まる。大阪ではタイ、韓国、シンガポールなどからの参加者が戦争体験を語り、日本人とともにアジアの平和を誓い合う。
 
 集まりは「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳(は)せ、心に刻む集会」。
 
 大阪集会は、8月15日午前10時から大阪市東区森ノ宮中央1丁目のピロティホールで。タイ・カンチャナブリの戦争博物館長ティーパンヤ・スティー師、韓国原爆被害者協会の辛泳洙会長、祖父が日本軍に捕まったまま行方不明となったシンガポールの新聞「南洋・星洲聯合早報」東京特派員の陸培春氏らが日本軍の侵略行為と被害者の感情を証言する。日本側からは、戦争中「山口県労務報国会下関支部」動員部長として、従軍慰安婦を含む朝鮮人の強制連行の指揮に当たった吉田清治さん(72)=千葉県我孫子市=が体験を話す。
 
 タイ会場は、映画「戦場にかける橋」で知られるクワイ河鉄橋のすぐそば。通訳として泰緬鉄道建設にかかわった岡山県倉敷市大島、英語塾経営永瀬隆さん(68)が、私費とタイ人の協力で今年2月完成させた「クワイ河平和寺院」に、新たにできる日本式庭園の完成式を兼ねた集会。
 
 現地で今も日本語で残っている「ロームシャ」として鉄道建設に加わったマレーシア人のトム・ユーさん(57)とその家族、元連合国軍捕虜、タイ在住華僑、僧りょらが出席する。日本から永瀬さんと一般募集の約10人が加わる。
 
 今回の催しは昨秋、関西大非常勤講師(日本史)の上杉聡さん(38)が、朝日新聞紙上で「アジアの戦没者遺族を招き、合同慰霊祭を」と呼びかけたのが、きっかけ。上杉さんが中心になって準備を重ね、宇都宮徳馬参院議員、随筆家の岡部伊都子さん、作家の瀬戸内寂聴さんら31人が呼びかけ人になった。
 
 上杉さんは「政府主催の全国戦没者追悼式で弔われるのは軍人、軍属と、原爆、空襲による日本人だけ。2000万人を超すといわれるアジアの犠牲者は、一度もまとまって追悼されていない。靖国神社公式参拝などアジアの人を逆なでする動きが強まり、外国人に指摘されないと反省しない」と話している。
 
 タイ集会への参加費用は約25万円。申し込みは集会事務局(06-562-7740)へ。

 

 

 

 

吉田のウソ作り話を記事に書いていただけではなくて、講演を聞きに行かせようとしていたのですよ。大宣伝です。

 

吉田の話を聞いた日本人はたいそう日本軍を憎んだ事でしょう。

 

吉田の話を聞いた在日朝鮮人、韓国人はたいそう日本軍を憎んだ事でしょう。

 

恐るべき「凶器」!朝日新聞だ。

 

簡単に一言、「記事を取り消します」???

 

取り返しのつかない大罪を犯しておいてそりゃ世間が許しませんです。 

 

 

   
 

 

 

 

 

 

 

|

« 吉田清治の記事(朝日が32年後に取り消した記事)とはどういうものか?その① | トップページ | 自分が情けない。朝日新聞の「吉田調書」の記事を鵜呑みにしていた。 »

朝日新聞」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 吉田清治の記事(朝日が32年後に取り消した記事)とはどういうものか?その②:

« 吉田清治の記事(朝日が32年後に取り消した記事)とはどういうものか?その① | トップページ | 自分が情けない。朝日新聞の「吉田調書」の記事を鵜呑みにしていた。 »