« そんなに憎い日本人(朝日新聞植村隆記者)に大事な娘を嫁に出すか~? | トップページ | 歴史を直視できるものはぶっ壊す。自分たちの都合のいい歴史に作り替えて教育する韓国。 »

韓国の歴史を直視してみよう。在日韓国人の方は必読です。是非読んで下さい。

韓国の歴史家が自国の歴史を調査して書いたものです。↓

 

自主独立の道を自ら拒んだ李王朝

 

李朝成立後。484年が過ぎた1876年2月に結ばれた「日朝修好条規」は、全文12条からなる。

 

この修好条規の第1条に「朝鮮は自首の国」とあることは、きわめて重要な意義を持つ。

 

1392年の李朝開国は、高麗の重臣であった李成桂(リセイケイ)が、明との戦いで遼東半島地方奪還に出陣し、密かに敵と通じて、威化島(鴨緑江下流の島)で軍を翻し、逆にときの高麗王ぐ(示+禺)王と上官の崔エイ(総理兼参謀総長)将軍を殺し、政権を纂脱(さんだつ)した結果によるものである。

 

敵国であった明の協力で打ち立てられた国であるから、その後李朝が明の隷属国家に転落したのは当然である。

 

国民は奴隷民族化され、私有財産も没収された。

 

李朝は専制王権制度に体制を変え、朝鮮民族が古代から高麗にいたるまで連綿と持ち続けた国際的自尊心を放棄し、明の属国として堕落が始まった。

 

 

 

このような環境の中にあり、搾取と虐政の中にあり、国王は名ばかりでなんら政策も施さず、その政府には国家の予算案すら存在しないという無軌道ぶりだった。

 

いわば民衆は無政府状態におかれていたのだった。

 

それを考えると「日朝修好条規」第1条の「朝鮮国は自主の国」との言葉の持つ意味の重大さがわかってくる。

 

だが、清と朝鮮との主従関係を断ち切ろうとした日本の狙いは、実際には実現にほど遠く、清の保護下にある李朝の専横はかわることなく、民衆は相も変わらず、塗炭の苦しみを味わい続けてていた。

 

近代化と自主独立の道を拒否しつづける李朝の存在は、東アジアの情勢に不穏な種を宿していたのである。

 

李朝は1897年、国号を「大韓帝国」とあらため、年号を「光武」とした。

 

王を皇帝と称し、表面的には5百10余年ぶりに明、清の束縛を脱し、独立国家を形成したが、実態はかわるところがなかった。

 

1904年、日清戦争に次いで日露戦争を控えた日本は、こうした朝鮮の惨状を見かねて、目加田種太郎(1853~1926年)を財閥顧問として派遣し、日本からの財政支援をもとに、李朝をまともな国として建てなおすという態勢がようやく緒につくことになった。

 

目加田財政顧問と統監府は、朝鮮の歳入不足を補てんする為に、日本国民の税金から、大韓帝国政府に無利子、無期限の資金「立て替え」を実施したほか、直接支出で援助した。

 

例えば、1907年度で、朝鮮の国家歳入は748万円しかなく、必要な歳出は3000万円以上であったから、その差額は全額日本が負担した。

 

1908年度には、これがさらに増えて、合計3100万円という巨額の資金を日本は支出した。

 

統監府時代の4年間に、日本政府が立て替えた歳入不足分は、1428万円にのぼった。

 

そればかりではなく、司法と警察分野などに日本政府が直接支出した金額は、立て替え金の数倍、9000万円にも達している。

 

現在の朝鮮、韓国の歴史では、日本の特恵的支援には一言も言及が無く、侵略だけを強調しているが、これがいかに偏狭な史観であるかを自覚しなければ、将来は開けない。

 

 

 

1910年8月29日には、明治天皇から臨時恩賜金として3000万円が与えられ、旧韓国が日本政府から借用していた2651万円は、そつくり棒引きにされた。

 

 

 

前述したとおり、李朝には、元々、予算の編成能力などはなく、目加田顧問の指導、監督の下で初めて予算が編成された。

 

いかに李朝が非社会的存在であったか、わかろうというものである。

 

飢餓には食料と金が必要であって、名義と暴力では解決しない。

 

 

 

歳入の3分の2を日本政府の持ち出しで賄った朝鮮

 

日韓併合後の補助金と称する日本政府の持ち出し(日本人の税金)は、1911年が1235万円で、それ以前の平均2500万円の半額に減った。

 

これは残りの半分を日本政府の公債と、日本からの借り入れ金で補っており、毎年日本から約2000万円前後を調達するという状況は変わっていなかった。

 

これは朝鮮自体の税収入の倍に及んでいる。

 

つまり朝鮮は、財政の過半数から3分の2を日本人の税金によって賄った結果、ようやく近代化に向かって出発することができたのである。

 

これ以外に、駐留日本軍2個師団の経費はすべて日本持ちであった。

 

終戦後、独立した韓国、朝鮮の教育は日韓併合を日本帝国主義の侵略政策の産物であったと糾弾するが、これがいかに歴史の実態を無視した身勝手、自己中心的解釈であるかは、いうまでもない。

 

日韓併合によって、搾取され呻吟されたのは、韓国、朝鮮国民ではなく、日本国民であった事実を認めるべきである。

 

1910年から1944年までに日本政府が発行した(朝鮮に対する日本の投資額)公債は、21億6566万円であり、このうち償還された7億2595万円を差し引いた、14億3971万円が未償還額という事になる。

 

これに立て替え金その他の直接支出と補充金をあわせると、総計では20億7892万円に上ることになる。

 

*現在の貨幣価値からいうと、1円=3万円くらいです。ですから3万倍してください。とてつもない額だという事です。

 

*今では韓国で売国奴にしたてあげられ、墓まで掘り返された大韓帝国の首相「李完用」は韓国にとって最善の政策をとって日韓併合を締結したわけだ。

 

なんたって、日本人からこれだけの金を出させて、韓国の近代化を成し遂げたのだから。

 

この点で、朴正煕大統領が日韓基本条約を結んで日本から11億ドルもの金を出させて漢江の奇跡と呼ばれる経済成長した事と同じですね。

 

*どれだけ頑張れ!頑張れ!と支援しても、恨みで帰されるのはまっぴらです。

 

「売国奴」のレッテルを貼られた李完用

 

1910年8月22日、「韓国併合に関する条約」が、大韓帝国の首相、李完用と日本の統監、寺内正毅との間で締結された。

 

これに先立つ1905年に日韓保護条約(韓国では乙巳ウルサ保護条約)締結の際も、李完用は学部大臣としてこの条約に賛成し、このとき、ともに賛成した4人の閣僚とともに、

 

「乙巳五賊(ウルサゴジョク)」

 

とよばれたが、これによって韓国における彼の「悪名」は完全に定着した。

 

今日でも彼の名は「売国奴」の代名詞であり、その業績を1部でも評価しようとすれば、その人間はたちまち激しい糾弾を浴びて、社会的に抹殺されてしまいかねない状況である。(現在では逮捕されます。)

 

だが、政治家として彼がとった選択は、非難されねばならないものだったのだろうか。

 

李完用は1858年、京畿道広州生まれ、24歳で、科挙文科に合格し、1886年、最初の英語学校である育英公院に入学した。当時より秀才の誉れが高かった。

 

1887年、米国駐在公使館に参事として赴任し、翌年には駐米代理公使に就任した。

 

1895年、外部(外務)大臣、学部(文部)大臣、農商工大臣を歴任、翌年、徐戴弼(ジョサイイヒツ)らと独立協会(最高愛国集団)を結成、初代委員長に選出された。

 

1898年、独立協会会長として、万民共同会を開催し、ソウル都心部で独立鼓吹の街頭演説会も多数開催していた。

 

1905年、日韓保護条約に賛成。

 

く

 

 

1910年、大韓帝国全権委員として、日韓併合条約に署名、併合後は朝鮮貴族に列せられ、明治天皇より伯爵を賜与。その10年後、侯爵に叙せられた。

 

こうした彼の経歴を一覧すれば、外交畑を歩み、対日観においては、一貫して親日的であったことは確かである。だが、私はあらゆる文献を通じて調べた結果、彼は稀代の愛国者であることを認識した。

 

1910年8月22日、彼が総理大臣として日韓併合条約に調印したのは、朝鮮の専制王朝が最後まで文明開化を拒み、過度の浪費で、極貧と飢餓に疲弊する民族を放置していることを見るに見かねて、日本の全面的協力を得て民族の再興を期するためであった。

 

彼ばかりではなく日韓保護条約、日韓併合条約に賛成した大臣たちは、民族の繁栄を希求し、滅亡を事前に防ぎたいという念願から、合邦に賛成しているのである。

 

彼らは当時の朝鮮国内の状況から、やむにやまれぬ政治選択をしたのであって、むしろ政権担当者の責任として、当然の行いをしたまでである。

 

日韓併合の是非は、当時の朝鮮王朝がどのような体制にあり、庶民の生活、社会の状況がどうなっていたのかを、正しくみつめなければ、何も論じられない。

 

彼は韓民族としての誇りを失わず、日本に対しても無条件で阿諛追従(あゆついしょう)したわけではなかった。

 

それは次のような点からも明らかである。

 

1、生涯日本語を使わず、英、韓国語を常用して民族の自尊心を高揚し、一般の百姓たちから厚い尊敬の的であった。

 

2、登用で最高の名筆家として、明治天皇からも親筆の額を要請されたほどで、今も独立門の額や王宮などに、彼の筆跡を目にすることができる。

 

3、高邁な人格の所有者で、外部大臣在任中、ロシアの朝鮮併合政策を挫折させた。

 

4、政策面で彼は貞洞派(ジョドンパ)(日中と距離を置き英米露に親近感をもつ)に近く、親日派や売国奴にはほど遠い存在で、近代化と民族の繁栄をひたすら願っていた。

 

 

 

李完用は1926年、68歳のとき、李在明(イジェミョン)から受けた傷がもとで死去した。

 

当時、斎藤実総監は弔辞の中で「李完用侯爵は東洋一流の政治家であり、、、、彼の人格はあらゆる人たちの欽慕の的であり、彼の死は国家の一大損失である、、、」

 

と述べた。

 

彼の葬礼は高宗の国葬のとき以来の規模で、大勢の人が参列し、彼を慕う人波が10里も続いた。

 

 

 

次号に続く。

 

韓国の国民に是非読んで欲しい真実の歴史。

 

韓国人の歴史家(崔基鎬)が調べあげて10年以上前に書いた書籍から書き写したものです。

 

日本人から見た歴史ではありません。

 

たぶん、ロッテの会長の重村さんたちのように、真実を知っている韓国人の方々はその通りだ。と胸を掻きまわされる想いではないでしょうか?

 

90歳を超えるご老人達がいなくなってしまう前に、真実の歴史と向き合って欲しい。

 

歴史を直視して欲しい。

 

今までの反日教育がどれほどのウソかを知る時がやってきました。ご自身で調べてみて下さい。朝鮮の歴史。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

|

« そんなに憎い日本人(朝日新聞植村隆記者)に大事な娘を嫁に出すか~? | トップページ | 歴史を直視できるものはぶっ壊す。自分たちの都合のいい歴史に作り替えて教育する韓国。 »

「韓国」カテゴリの記事

コメント

侵略して、植民地にしようとする国に対して、自主の国、などと条約の文言を入れる訳が無いのです。日本は当時、人口も少なく、人的戦力が不足しており、朝鮮国民にとって救世主でなければならなかった。日本の為に頑張ることが朝鮮、自国の為になると思ってもらわなければならないと思っていたのです。朝鮮国民に一緒に頑張って欧米の植民地政策と戦って欲しかったのです。台湾しかり、日本人はアジアの白人植民地政策に真っ向から挑んだ黄色人種だったのです。

投稿: | 2014年3月11日 (火) 21時09分

この際だから、徹底的に韓国の歴史を勉強しましょう!何故ここまで反日教育をするようになったのか?知りたいです。

投稿: ポコパン | 2014年3月11日 (火) 21時35分

名無しさん、本当にそう思います。植民地にしていたのはまさに李朝が自国民(朝鮮人)に対してしてたことです。

投稿: 筆者 | 2014年3月12日 (水) 16時10分

ポコパンさん、みんなそうなんですよ。もっと朝鮮の歴史を知っていれば、反日に対抗できるんです。今私たちに出来る事は、勉強することですね。

投稿: 筆者 | 2014年3月12日 (水) 16時11分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 韓国の歴史を直視してみよう。在日韓国人の方は必読です。是非読んで下さい。:

« そんなに憎い日本人(朝日新聞植村隆記者)に大事な娘を嫁に出すか~? | トップページ | 歴史を直視できるものはぶっ壊す。自分たちの都合のいい歴史に作り替えて教育する韓国。 »