高橋嘉信氏が以前(10,4,8)週刊新潮で言っていた事。(先日の補足記事です)
小沢一郎と共に日本の政治を変える。私はこう思って20年以上、小沢に仕えて来ました。彼は昔から目的のためには手段を選びませんでした。「真の民主主義とは、、、」「国民の生活が第一」などと、綺麗事を口にします。しかし、実際はゼネコン選挙で集めた票で、自分の意のままになる議員を作っていきました。
こうして権力と金を手にし、政治家として力をつけていったのです。私も、ある時まではそれも仕方がない、と自分を納得させ、岩手の有力者に小沢の理想を説いて歩きました。
ところが、昨年(09)秋の政権交代を経て、今の民主党はどうか。政治が良くなっているのであれば、何の問題もありません。しかし、民主党はどんどん危険な方向に向かっているように思えてならないのです。(中略)
陸山会(小沢氏の政治資金管理団体)の政治資金問題が発覚した当初、私は東京地検特捜部の捜査にも協力を拒んでいました。ですが、土地購入の原資が政治資金、定期預金を担保にした融資、個人資金と二転三転した挙句、現(大久保、池田)、元秘書(石川衆議院議員)が3人逮捕されるという事態に至った。何と潔く情けない姿か。これでは私を含め、小沢の命令を忠実に実行してきた秘書が犠牲になるだけ。小沢の理想を代弁してきた者としても、このまま黙っている事は無理でしょう。そこで私は小沢一郎と言う政治家の真の姿をきちんと話す事にしたのです。(中略)
私は総括責任者で、選挙、地元の市町村の陳情を受付、選挙の候補者選定が主な仕事でした。そして93年の総選挙で「ゼネコンを徹底的に使え」。小沢は私にこう命じたのです。
この一言が総ての始まりでした。小沢は、この時、岩手2区で前回の総選挙より5万票も増やし、14万2451票を獲得して圧勝。後にも先にも、これほどの票を獲得した事はない。小沢はこの勝利を見て、ゼネコンこそが選挙に勝つ道具だと確信したのです。
95年には小沢が擁立した増田寛也が岩手県知事に初当選しました。これで小沢は地元での公共工事のゼネコンに対する影響力を手中に収めました。また、同時にゼネコンからの政治献金も一気に増えました。献金の額を聞かされ、「そんなに集まっているのか」と思う事もあったほどです。
しかし、小沢は96年以降、自分の選挙で本格的なゼネコン選挙はやっていません。なぜなら、もはや、岩手で小沢に勝てる人はいないからです。その代わり、他の選挙でゼネコン使い、子飼いの議員を作っていったのです。
95年、岩手県知事選の増田、96年の総選挙で達増拓也、98年の参議院では樋高剛、、、。「負けそうだ」との声が聞こえれば、私が現地に入って指揮しました。増田や達増もゼネコンの協力が無ければ、当選できなかったはず。何しろ200人以上のゼネコン関係者がやってきて、選挙支援をするんです。系列、下請け会社を含めれば、1000社以上に及ぶ関連企業が何十万人という名簿を提出し、小沢の為に選挙協力した。これでは相手候補が勝てるはずがありません。
もちろん、ゼネコンは善意による協力のみで、戦いに加わるわけではありません。我々が名簿を基に「集計表を作り、どの(ゼネコンから提出された)名簿が役に立ったかを査定する。その成績に応じて、公共工事で「天の声」が降りてくるのです。
小沢の秘書は毎朝、東京世田谷の深沢の小沢邸に赴き、命じられた仕事の報告を行います。私も岩手にいる場合を除いて、必ず顔を出していました。私が8時半から9時くらいに小沢邸に到着すると、大体、他の秘書が直立不動で小沢の前に立ち、報告を行っていました。小沢はどっかと椅子に座り、黙って聞く。そして一通り聞き終えると、次の指示を出すのです。秘書には仕事を分担させ、秘書たちが情報を共有することを嫌がっていました。総てを知っているのは、小沢本人だけです。
鷹生(たこう)ダムに関する「天の声」を聞いたのは、一般競争入札が行われる数ヶ月前、98年初めだと思います。ある朝、私はいつものように小沢邸に行き、ダイニングルームで報告をしました。部屋には、小沢と私の2人きり。小沢は寝巻から普段着に着替え、食事も済ませ番茶を啜っていました。
私の報告を聞き終えると、「大船渡の事で清水(建設)には世話になっている。鷹生ダムは清水にしろ。仙台に言っておけ。」こう「天の声」を出したのです。仙台とは鹿島建設東北支店の事です。
私自身は小沢事務所とゼネコンの力関係などは詳しく知りませんから、受注についての判断は全て小沢に確認し、逐一指示を仰いでいました。それにしても、岩手での談合は、初代社長が岩手出身で小沢家と縁の深かった鹿島建設がしきっており、鹿島と争っていた清水は県内でもアウトサイダー的な存在でした。。それだけに清水に受注させろと言われ、大変驚いたのを覚えています。
そもそも、鹿島は小沢とは父親の代から近かったのですが、一時、疎遠になっていました。その後、関係が修復されたのは、金丸さんが失脚した92年頃。私は98,99年頃、鹿島で談合を仕切っていた(東北支店の)Iさんと電話で連絡を取り合っていました。
談合は様々な関係や状況を踏まえて調整されるべきであり、こちらの一方的な押し付けは、調整役の存在を否定しかねないので避けるべきだと思っていました。また、特定の業者に決めろと押し付ける事は、他の業者を敵に回しかねず、今後の選挙や政治資金にも影響を及ぼしかねません。特にダム工事となれば、各業者が血眼になって営業するので注意すべきであると思っていました。
そこで私は小沢に「清水は選挙では全く協力的ではありません。なぜ、清水にしなければならないのですか?」と反論めいた口調で尋ねました。すると、小沢はムスッとした表情を浮かべ「いいから、そうしろ!」と窓の外を見ながら命じました。当時、小沢の指示に逆らえる秘書はいませんでしたが、私はどうしてもおかしいと思った時は、小沢に意見していました。この朝もそう。私が反論すると、睨みつけるのではなく、決まって目を逸らし、不機嫌そうに声を荒げるのです。
そこまで言われれば、私はにはどうすることもできません。こうなったら小沢には誰が何を言っても無理。私はその場を辞して、同日の午前中Iさんに、決定は絶対的である事を理解してもらう為に「小沢からです」と前置きして上で、「鷹生ダムは清水だそうです」とだけ告げました。
*結局、一般競争入札では清水建設、熊谷組などのJVが落札した。さらに今年(10)に入って受注側の見返りとして数年間、小沢氏のパーティー券を2000万円ずつ購入したと報じられた(毎日新聞10、1、25)。高橋氏の証言に対し小沢事務所は「担当者が不在のため、回答できません」鹿島建設は「確認できません」清水建設も「確認できません」というのみである。
1つ、小沢という男の考えを象徴する言葉があります。私はかつて「大将から貰う金はな、高橋、10円でも押し頂くものだ」と言われた事があります。つまり、小沢事務所と言うところは、10円の金を動かすのだって、小沢の許可がいる。これが、小沢の金に関する考えです。樋高をはじめとする陸山会の担当者は、毎朝、小沢邸に行き、会計報告を行っていました。陸山会の土地購入問題について、私は詳細を把握していませんが、少なくともこれが小沢事務所の実態なのです。
自民党を離党した頃、またそれ以前から、今日まで小沢と行動を共にしている人は誰ひとりいません。
藤井裕久さんも渡部恒三さんも二階俊博さんも、みんな遠ざかってしまった。小沢が語る政治改革の理想と、現実の小沢の人間性との乖離。みな、利用されるのに疲れて離れていったんです。
そして今、小沢の周りには若い訳のわからない議員しかいなくなった。小沢はここまでを諒(リョウ)として、議員辞職すべきだと思います。
後世まで汚名を残すような、恥ずべき行動を続けてはならない。私は政治の世界から身を引く覚悟で、真実を話しています。小沢には「どうぞ、私と一緒におやめ下さい」と言いたい気持ちです。
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以上が小沢一筋で20年仕えた高橋氏が週刊新潮に告白した小沢の真実です。
勇気ある志士ですな~。完全にあの巨大な小沢と対決して刺し違えるつもりです。この高橋氏、証人喚問に応じるつもりです。国会で偽証すると偽証罪が適応される証人喚問に出る!!!と言っています。
どうしても見てみたいですね~。皆さん。
経世会の金庫から八尋(当時の経世会事務局長で後の小沢の金庫番)さんと連絡をとりあって13億円を小沢の深沢の自宅に運び込んだ高橋さん。
正義は必ず勝つ!!!!
日本の政治、未来、国民の為に頑張っている人は輝いているな~。頑張れ高橋!!!
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